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文部科学省の「国立大学法人の戦略的経営実現に向けた検討会」を考える [財政問題と地方分権]

文部科学省は、国立大学の経営改革や財源多様化に関する検討会議「国立大学法人の戦略的経営実現に向けた検討会議」を2020年2月より開催し、3月19日に第2回の会議を終えた。この検討会議は政府の経済財政諮問会議の2019年「骨太の方針」に設置根拠を有し、内閣府の未来投資会議が主導力を発揮している。

国立大学の制度改革や政策形成の重心が文部科学省から近年は内閣府(官邸)にシフトするなか、国立大学の経営的自由度や財源確保の方策が議論されるという「政策力学」には注視すべきである。前回ブログで述べたように、高等教育の経済効果や個人的・財政的な便益はロングテールで捉えてはじめて、その生産性が本質的に評価される。単年度・単眼的な視野から官邸主導で政策立案を急ぎ、予算配分のメリハリと称して新たなルールを適用し、結果的に予算総額を圧縮する手法には「労多くして益少なし」の感をみる。

政府の未来投資会議が担う科学技術・イノベーションをめぐる議論は、まさにロングテール案件の典型である。投資とは、良い意味で「不確実性」の世界だからである。国のイノベーション投資とはまさに不確実性への公共投資であり、国立大学はその不確実性と日々闘いながら研究成果を生みだす拠点である、と再定義すべきである。「不確実性」への公共投資こそ、グローバルな競争力の源泉となり、イノベーションの主導権を握る可能性を大いに秘める。2000年以後グローバル化の進展の中で日本経済が低迷している最大の理由は、そうした主導権を完全に失っていること、つまり不確実性への重層的な公共投資を異様に嫌って国立大学への財政支援を削り落とし、投資効果に対して単眼単層になりすぎていることにある。

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文部科学省「国と国立大学法人の契約関係」(国立大学法人の戦略的経営実現に向けた検討会議(第2回)より)

検討会議の論点の一つ、国と国立大学との契約関係に関する議論は興味深い。仮に、上述した再定義からいえば、従来の大学経営ガバナンス論に立脚した議論では不十分である。むしろ迷走の感さえ抱く。結論からいえば、「イノベーションの不確実性への自立的挑戦」という普遍的なロングテールの中心概念を打ち立て、国と国立大学とが重層的あるいは多様に契約を交わす仕組みが必要である。不確実性への公共投資という再定義によって国立大学レベルでの「自立的挑戦」のあり方は重層的・多種多様になり、国立大学や研究者が意欲や使命に燃える環境を提供できる。なにや「挑戦」という言葉を用いると、無責任な「冒険」であるかのごとく誤解を生むかもしれない。その誤解を解くためにも、国立大学または個々の研究者には地域社会や納税者に対する高い説明力を備えることが前提となろう。文系・理系ともに社会に対する説明力という点で、国立大学は不十分であったかもしれない。

「不確実性への公共投資」という再定義から言えば、東大・京大・東北大等の「指定国立大学」7校に偏在した政策形成や資源配分には矛盾が生じる。不確実性への公共投資の対象とすべきは、基本的に全86校の国立大学は勿論、私学助成金が投じられている私立大学を含む高等教育システム全体である。不確実性のグローバル経済の時代に競争力を維持するには、多様性と重層性を備えた高等教育システムが有用である。有能な研究者は国立にも私立にも在籍している。その意味で国立、私立の設置形態は重要ではない。それは、ハーバード大学やスタンフォード大学など有力な研究大学のほとんどが私立であり、連邦政府から多額の研究費が投じられていることから容易に理解できる。ただし日本の場合、実質的には研究機能を蓄積した「大学院」を設置しているのは国立大学であり、したがって研究力が高いことは事実である。設置形態ではなく、究極的には大学院を研究機能の核としている点に国立大学の存在意義がある。

世界を震撼している新型コロナウィルス。その猛威の克服には「不確実性への公共投資」が急がれる。それはグローバルな競争であり国が国立大学を支援する理由である。ウィルス撲滅のワクチン研究には国の支援と大学の「自立的挑戦」という精神の両輪駆動が必要である。

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